幸いな人11月号:記事(PDF)

 

「親がまず目覚めて」     稲葉 寛夫

 

 

人間はすべて罪人


まず、初めに認識すべきポイントは、人間はすべて罪人であるということです。聖書に、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ロマ3:23)とある通りであり、イエス様は「このような姦淫と罪の時代」(マコ8:38)と呼び、人々は「神にそむいて姦淫をし、すべての麦打ち場で受ける姦淫の報酬を愛し」(ホセ9:1)てやまない世代です。こうした中で、世はまさに暗闇に向かっています。
そして、人々の心もますます悪に向かっています。「姦淫の霊が彼らのうちにあって、彼らは主を知らないから」(ホセ5:4)です。その中に児童ポルノの問題もあります。
日本では児童ポルノに対する法規制が遅れていますが、それは早急に改善されていく必要があると思います。しかし、法規制を期待して待っている場合ではなく、今緊急に必要なのは、それぞれの親が認識を深め、子どもたちを取り巻く状況の危険を知り、対処する責任を自覚することです。子どもたちを取り巻く人々や環境は、姦淫の霊と罪に満ちていて、そこから守る必要と、ワナに落ちない、キリストの弟子として育てていく、親の責任に目覚めていく必要があります。
「学校任せ」とか、「他人任せ」ということばがあります。聖書には、子どもたちの大切な魂を国や学校に任せよとは一言も出てきません。児童ポルノをはじめとして、この罪の世の中で、子どもを教育していく責任を与えられているのは、「親」です。そして、その親をサポートする責任が問われているのは、祖父母であり、教会であり、クリスチャンたちです。
親が聖書にあって目覚めていく。そうしないと罪が暗闇の中でますます育まれていくこの時代、子どもたちの心や体、そして霊が傷つけられ、取り込まれていく危険性が膨らんでいく一方でしょう。今こそ親が立ち上がる時であり、その親を支援する時でもあると思います。聖書は警告します。「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」(?ペテ5:8)


アメリカで考えられない、日本の子どもの無防備な状況


先日のことです。チア・にっぽんの事務所があるさいたま市の駅前で、4?5歳の子どもが一人で遊んでいました。アメリカで育った17歳の長男は驚き、「親はどうしているのかな」と思ったそうです。アメリカでは、幼児があっという間にさらわれてしまうということは日常茶飯事であり、親や保護者の目が届かないところで幼児が遊んでいるという状況は、極めて危険で、普通はこのようなことは考えられないことです。今朝も、同じ駅前で、子ども一人を残してエンジンをかけっぱなしにした車がありましたが、これもアメリカでは考えられないことです。だれかが運転してしまえば、あっという間に子どもはさらわれてしまいます。
これは日本の良いところと悪いところが含まれているかと思います。良い面は、日本はこれまでは、比較的安全だったということ。悪い面は悪に対して鈍感で無防備であること。日本で罪がなかったということではなくて、これまでも水面下では、さまざまな性的な被害が存在し、ただ隠されてきたという側面もあるでしょう。今は、アメリカにもないような凄惨な事件が、坂を転げ落ちるごとく、急増している時代になっているわけですから。
子どもの誘拐ということでは、アメリカでは悪が先に蔓延していたと思います。私がアメリカに住むようになったのは、16年前です。驚いたのは、家に送られてくる、普通の商品のダイレクトメールに、子どもたちの写真が4?5枚載って、毎日のように届くのでした。何だろうと見ると、4?5年前から連れ去られ、行方不明になった小さな子どもたちを捜し、情報提供を求める写真でした。それが毎日、違った子どもたちの写真が、さまざまな商品に印刷されて、たくさん届きます。子どもの誘拐等は、それほど日常茶飯事になっていたのです。だから4?5歳の子どもを駅前で、一人で遊ばせるなんて考えられないのです。
アメリカでは4?5歳の子どもが一人でいたら、すぐにさらわれて売り飛ばされ、性の玩具にされたり、悪魔礼拝にささげられたり、もう少し大きい子どもは麻薬を打たれて、女の子でも、男の子でも性の対象とされてしまう。だから、親は無防備に子どもを一人にしないのです。家で、11歳以下の子どもたちだけを残して親が外出した場合には、逮捕されます。
言い換えれば、本来人間の心は罪に満ちてどうしようもないということです。警察がいくら増えても間に合わない。ほえたける獅子のごとく悪魔が探し回っているような、そんな世界に、子どもを無防備に放つということがどれだけ危険かを、親たちが自覚している社会とも言えます。ですから、日本の駅前で幼児が保護者もなく遊んでいたりする姿は、アメリカでは通常あり得ないし、もしあったら、命や一生を失わせるものすごいリスクと隣り合わせにさせている、親の責任を放棄した愚かな親であることを意味します。

乱れた倫理観


日本も今、これまで水面下にあった問題が表面化し始め、その風潮や凄惨の度合いが加速度的に進んでいる時代に入りかけていると思います。児童ポルノに関しても、私たちが今知っているのはまだまだ氷山の一角で、想像もできない残酷な出来事や悲しい事件がこれからますます起きてくると思います。
アメリカ人が子どもを野放しにしないことの土台には、人間はもともと善人ではなく、中間でもなく、罪人なんだという聖書的な共通認識が残っていて、その中に子どもを無防備に放り出すことなど考えられないという土壌があると思います。
日本では、その聖書的な人間観、倫理観は、まだ浸透していません。それが日本の性的な乱れを助長してきたと思います。聖書に基づいて神を畏れ、人間の罪深さを理解して子どもたちを導いていかなければ、日本の子どもたちが被害に遭う可能性は高くなります。
残念なことに、私たちのかわいい子どもたちもまた、罪人であり、性的な誘惑に惹かれていく素質を持っています。そして、その子どもを守り、教育していくことをゆだねられているのは私たち親です。たとえクリスチャンであっても、その罪のDNAは残されているわけです。クリスチャンであっても、性的な罪を犯す環境が整ってしまった場合、主を畏れる心を失ったなら、ノンクリスチャンと同じような罪を犯す可能性も高くなります。インターネットやアニメ、携帯をはじめ、性的な刺激も増え、個人主義が発達していく中、密室でそうした情報も得やすい今、ますます滑りやすい状況に置かれているわけです。

まず親が目覚める


ですから、まず親がしっかりする必要があります。クリスチャンであろうがなかろうが、私たちは今まで受けてきた教育、社会、仲間たちからの情報、慣習に影響(洗脳)されています。この世の価値観やメディアから流される情報に惑わされていては駄目です。
聖書は、大切な子どもたちの魂を、国家や学校、子どもの仲間たちではなく、親にゆだねたと言います。後にイエス様が、聖書で最も大切な命令は何かと聞かれた時に引用した箇所が、申命記6章にあります。
親と祖父母に向かって書かれた、主を畏れて生きるための命令です。
「これは、あなたがたの神、主が、あなたがたに教えよと命じられた命令−おきてと定め−である。……それは、あなたの一生の間、あなたも、そしてあなたの子も孫も、あなたの神、主を恐れて、私の命じるすべての主のおきてと命令を守るため、またあなたが長く生きることのできるためである」(6:1?2)
まず、親自身、私たち自身が、全力で神を愛することが命じられ、心に刻むことが指示されます。
「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい」(6:4?6)
第一は、私たちが主を畏れ、愛しているかです。その後で、子どもたちへの教え方が出てきます。
「これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい」(6:7)。「よく教え込みなさい」とは、主を畏れ、愛することを、繰り返し繰り返し、教え込みなさいということです。言い換えるならば、子どもたちはそれを忘れるし、何十回、教えて忘れていたとしても、絶望しないで、教え続ける必要があるという主の命令です。
いつ、どこで教えるのか。これは、主の教育の原点ともなっているホームスクーリングの聖書の根拠としてもしばし、用いられる箇所です。
「あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい」(6:7)。つまり、24時間、家でも、外でも、主を畏れ、愛することを教え続ける責任が親にゆだねられ、そして、祖父母や教会、クリスチャンたちは、その親を助ける使命があるんだと明確に、教育の仕方を命令形で示してくれているわけです。

まず、親がもっと目覚めて主を畏れ、主に従って生きることが大切です。聖霊の力を受けて、子どもたちに主を畏れ、愛することを真剣に教え続ける、そのことが性的な面での問題も顕著になってきている、この時代ほど問われている時はないのです。

 


悪にさらわれないための3つのステップ

具体的にどうすればいいのか?
それでは神からの責任を認識した親は、具体的に、この児童ポルノについて、どう対処すればいいのか。以下の3点は、子育ての基本の3ステップですが、今回のテーマにも当てはまることだと思います。

1.親と子の強い絆を持つ
親と子の絆がしっかりと保たれていないと、ただの説教になってしまいます。「この親が言うのなら本当だ」と思える信頼関係を日ごろから築くことが大切です。何よりも親自身が模範になっている必要があります。聖書の原則を教えると同時に、申命記6章4?6節に見た通り、話よりも模範。親自身がまず主を畏れ、愛することに全力で取り組む模範が命じられています。そしてその後、7節でそれを子どもたちによく教える責任があると記されているのです。
そして大事なことは、時間を過ごすこと。子どもは受容されたく、自分に時間を費やした人々と絆を持ちたがり、そして影響を受けていきます。それが、友だちであるのか、ブログの仲間であるのか、あるいは、親であるのか。聖書の教えを伝えたければ、強い絆を育むために、時間を費やし、犠牲を払っていくことが必要です。イエス様が、弟子たちを訓練していった方法です。ホームスクーリングの親子の絆が強いのは、苦労しながらも犠牲の心が伝わること、それが大きな要因の一つです。

2.何が善で何が悪なのかをしっかりと教える
男性と女性は違うことや、結婚以外の性関係は罪であること、そして、男性は夫婦になる人以外には触れない方がいいことなど。
「姦淫してはならない」(出20:14)「不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです」(?コリ6:18)「男が女に触れないのは良いことです」(?コリ7:1)などです。
性的なことは、教え過ぎる必要はないと思いますし、し過ぎると逆に刺激になるので注意すべきです。でも、基本的なことは、事前に何が悪いことで、何が良いことか、聖書の基準を教える必要があります。幼い時から身を守ること、危ない場所に近づかないこと等を教える必要があります。幼児同志の、いわゆるお医者さんごっこなども良くない行動であり、させない注意が必要です。

3.教えたことを守らない場合は懲らしめ、しつけていく
子どもの罪を断ち切るための、聖書に立つ愛のムチ、懲らしめが必要です。これはこの世の流行とか、世や友だちの影響から子どもたちを守り、性的な問題だけではなく、親への反抗などの問題も含めて、主の弟子として育てていくステップにつながります。
箴言13章24節には、「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる」とあります。22章15節には、「愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る」とあります。聖書が言う通り、かたくなな罪の心を除くためには愛をもって、冷静に、懲らしめ、しつけていく必要があります。必要な時には、口だけではなく、心静まったときに、愛のムチを持って。第2ステップで事前に教えていた善悪の基準を犯したことを確認し、その罪の心に対して、親が懲らしめる責任を神様から命じられていることを確認し、子どもがなぜ懲らしめられているか理解した上で。親がいらだっている時には決して行わず、冷静になった時を待ち、懲らしめの場所は、子どもがけがをしないよう、お尻等を中心に行います。もちろん、本人が悔い改め、懲らしめが終わったときには、完全に赦し、抱きしめてあげて。後で「あのときお前はこんな間違いをした」などと繰り返し責め続けることはせず、赦された罪として、白紙になったことを確認して。
いずれにせよ、親は、わが子も罪に引っ張られる可能性のある、罪を喜ぶ心を持った存在であることを、まず認識する必要があります(箴23:13?14)。

親、また大人のクリスチャン自身が、児童ポルノや淫行等から、心を守るためにはどうしたらよいでしょうか。3つのステップを勧めます。

1.主を畏れる
聖書は、「主を恐れることによって、人は悪を離れる」(箴16:6)と明確に記しています。主を畏れる心がなければ、人間はやりたい放題になります。特に状況がそろい、人の目がなければ、いくらでも陥ります。この世の乱れ、性的な乱れの解決は、この主を畏れる姿勢以外にはありません。

2.聖霊に頼る
性への誘惑は、本来、自分たちの力では解決できない問題の一つでもあります。ですから、性的な罪の解決は、聖霊にいっそう拠り頼む必要があるのです。パウロが言ったように、私たちはみじめな人間であり、罪人のかしらです。毎朝、弱いところを主にゆだねて主からの力を求め、そして主から目を離さないことです。一歩一歩、悔い改めながら進んでいくことです。
聖書は言います、「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません」(ガラ5:16?18)。謙遜に、真剣に聖霊を求める時、主は助けてくださいます。主のことばに聖霊の力で従っていけます。「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです」(詩119:9)

3.イエスの血潮の赦しを信じる
三歩進んで、二歩下がるという歩みかもしれません。自分を責める心も出てくるでしょう。が、イエスの血潮で赦された確信を持つことです。恵みによる救いと、新しいスタートへの確信です。「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです」(エペ1:7)

 

すでに被害を受けられた方、
ご家族の方へ


被害者に非がないケースで、深い傷と痛みを負ったケースにも出会ってきました。
親御さんが最善と思える主にある教育をなさっていたのに、悪魔の手にかかったとしか思えない被害に遭うケースもあります。その苦悩と痛み、傷は一生消えないような、そんなケースもあります。
きっとこの文章を読んでおられる方は、そのつらい時すらも、ずっと目を離すことなく、そばにいて痛んでいてくださった主キリストと出会われた方が多いのではと思います。もし、まだイエス様を信じておられない方がいれば、ぜひ心の扉を開き、救い主、人生の主として迎え入れてください。新しい人生が始まります。痛みを持ったクリスチャンの方にも、これから、信じようとされているノンクリスチャンの方々にも聖書は呼びかけます。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(?コリ5:17)
「いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています」(?ペテ1:6?8)
「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます」(?コリ10:13)
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ロマ8:28)

 

今が分かれ目


子どもたちを守り、教えていかなければ、あっという間に傷つき、汚れ、そして罪におびき寄せられてしまいます。そうならないように、大人や親は子どもたちにしっかりと聖書の価値基準を教え、子どもたちが悪にさらわれないように守り導くことです。日本がまさに暗闇の中に入ろうとしている今、私たちが聖書に立ち返り、主を畏れたその時にこそ、希望の光は、見えてきます。