Comment from OB/OG
ホームスクーリングは人生最高の選択
Profile
中山 薫子&基義(きよし)
1999年からホームスクーリング開始。
当時、父は会社員、母は専業主婦で、子どもは長女が小3、長男は5歳、次女は4歳でスタート。
今娘たちは看護師となり、息子は大学を卒業して司法試験に合格し、弁護士として働いている。
良い道を選択することが本当の愛/薫子
結婚前からホームスクーリングを望んでいた主人とは違い、結婚当初の私はホームスクーリングなど絶対反対でした。その話が出るたびに身震いしていたほどです。ところが実際に子育てをしてみると一向にうまく行かず、しつけも分からず、どうやったら良く育つのかと悩む日々の中、主に解決を祈り求めていました。
そんな時、ホームスクーリングをする宣教師との出会いがありました。子どもたちが別世界のように良く育っているのを見て、「ホームスクーリングは良いなぁ」と思いましたが、日本は状況が違うし、自分たちがやってもうまく行かないだろうと考えていました。
それから程なくして、今度は日本人クリスチャンのホームスクーラー家族と出会い、その子どもたちも良く育っている姿を見て、ホームスクーリングの可能性が心の中に芽生えてきたのです。
しかし、社会性などを心配して実行できず祈り続けていたところ、ある本で「ホームスクーリングは社会性や勉強などに良いことが実証されている」と書かれているのを読みました。これは学校に通わせている場合ではないと、今度こそホームスクーリングを迷いなく決断できました。
当時長女は小学3年、長男と次女は就学前でした。長女に話したところ、「学校をやめたくない。せめて来年からにしてほしい」と泣かれてしまい、最後の学期だけでも行かせようかと主人と話し、祈りました。けれども、子どもの成長は早いので、やると決めたなら一日でも早い方が良い、たとえ子どもの意に反しても神の御心を求め、子どもの魂にとって良い道を行かせるのが本当の愛だと考え、ホームスクーリングに踏み出すことを決意。学校の先生方やお友達などからはびっくりされ反対もされましたが、神の御心にかなっているという平安がありました。御言葉に励まされながら進む
それまでしつけもよく分からずに来てしまったので、始めた当初は子どもたちも言うことを聞かず、目茶苦茶でした。私自身、勉強を教える忍耐力や自制心がなく、同時進行で物事を進めることも苦手で、子どもと一緒に何かをするのも上手ではありません。おまけに小心者で人の目を気にします。そのような者がホームスクーリングをするわけですから、混乱状態も当然です。ホームスクーリングは、しつけ無しには成立しないことを痛感しました。
ひたすら主に祈り求めていた時に与えられたのが、テッド・トリップさんの“Shepherding a Child's Heart”(『聖書が教える親と子のコミュニケーション』,チア・にっぽん/ホームスクーリング・ビジョン刊)という本です。そこに記された方法で子どもたちを扱うと、子どもたちも徐々に落ち着いていき、従順になり、「良く育っているね」と周りからも言われるようになりました。主が祈りを聞いて助けてくださったおかげです。
その一方、ホームスクーリングの実が見えない日々は長く続きました。そんな時、ホームスクーリングをされている宣教師がこうおっしゃったのです。「今はトンネルの中だけど、そのうち緑が見えてくる。あなたの髪の毛に白髪が混じる頃には、よーく育っているよ」。冗談のように思いましたが、その時が来るのを待ちわびていました。トンネルは何年も続き、神さまがせっかく建て上げてくださったものを私が怒りでぶち壊すような日々で、とても人には言えないようなホームスクーリングだったと思います。
けれども、絶望した時に御言葉によって励まされ、進むことができました。「恐れてはならない。あなたがたは、このすべての悪を行った。しかし主に従い、わきにそれず、心を尽くして主に仕えなさい。……まことに主は、ご自分の偉大な御名のために、ご自分の民を捨て去らない。主はあえて、あなたがたをご自分の民とされるからだ」(第一サムエル12:20~22)
私の悪いところは子どもに正直に謝り、悔い改めの祈りを共にしていく。そうすることで、かえって関係も良くなっていったように思います。反対していた学校関係の方々も、長年続けているうちに「お母さん、頑張ってください。いろいろ教えてください」と、態度が変わっていきました。悩みを祈りに変える
ティーンエイジャーの年代に入ると子どもたちとの距離を感じるようになり、ホームスクーリングは失敗だったと泣きながら神さまに祈りました。「神さま、あなたは私に子どもたちを授けてくださいました。ホームスクーリングをしましたが、失敗しています。このようにしか育てられませんでした。本当に赦してください。どうか私を見捨てないであわれんでください。助けてください。あなたの恵みの光を見せてください」
子育てがうまく行かない中、数々の御言葉が心に留まりました。「曲がっているものを、まっすぐにはできない」(伝道者1:15)、「すべての営みには時がある。……嘆くのに時があり、踊るのに時がある」(同3:1~4)
これらの御言葉を読み、「ああ、私にはそもそもできないんだ。それなら、神のなさっていることにひたすら目を留めていよう。神の時がある」と不思議と平安になりました。自分の思いや考えを突きつめても、泥沼に陥ってろくなことにはなりません。それらをすぐに祈りに変える時、平安と恵みで満たされ、聖書に書いてある通りにすべてのことを感謝しているうちに悩みも消えていきました。信仰の言葉を告白する
クリスチャンの親なら、自分の子どもがイエスさまを信じ、救われてほしいと願います。ところが、ある子どもは信仰者になり、ある子どもは信仰者にならない。この違いは一体どこにあるのだろうと考えていた時、イエスさまから病気を治してもらった女性の話を読み、信仰と言葉とは密接に結び付いていることに気付きました。その女性は「『お着物にさわることでもできれば、きっと直る』と考えていた」(マルコ5:28)とありますが、新改訳聖書では「考えていた」の直訳として欄外に「言っていた」と記されています。信仰は言葉となり、その言葉は実現する――そう考え、これからは「自分の子どもはもう無理だ。救われない。もう遅い」と不信仰なことを口にするのはやめて、「必ず救われる」と言おうと心に決めました。
それから長い時間が過ぎ、悩みに悩んだ長女が遂にキリストを自分の罪からの救い主として受け入れ、バプテスマを志願。天にも昇るような喜びで、私は顔を床にこすりつけながら神さまに感謝しました。トンネルから緑が見えた瞬間でした。長男、次女もそれぞれ非常に悩みましたが信仰告白に導かれ、受洗。主は私の嘆きを踊りに変えてくださいました。一番大事なのは、神の力
ホームスクーリングで子どもに授けたいと願っていたことが三つあります。「信仰」と「良い人格」と「働く力」です。
まず信仰が与えられました。人格面では人恋しさのあまり逆に人好きで社交的な性格になりました(笑)。社会でやっていけないどころか、周りの人たちから好感を持たれ、信頼もしていただき、羨ましいぐらいです。
勉強面は、最後まで暗中模索状態でした。最初はアメリカのカリキュラムを用い、英語ベースの通信教育に取り組みましたが、結局私の英語力不足で挫折。日本語の教材もあれこれやってみては途中でやめました。それでも高1の年齢で3人とも高卒認定試験に合格し、神さまに感謝しました。
その後それぞれ塾に通い、娘たちは看護専門学校、息子は国立大学へ。娘たちは既に働いており、長女は看護師5年目、次女は2年目です。息子も1回目の司法試験で合格することができました。こんなホームスクーリングで、しかも親は2人とも勉強が好きではないのに何とかなりました。
私は、自分自身が社会性や常識に欠けた人間だと思っていましたから、子どもは自分に似てほしくないと思っていました。そのような母親が日中ほぼ1人で何年もホームスクーリングをしたのに、子どもたちは完璧ではないにせよ、少なくとも親よりは良い人間になったと思います。これはすべて超自然的な神の力が働いたとしか考えられません。
このように、我が家は神の力だけで建て直されていきました。ホームスクーリングをする上で一番大事なのは、神の力です。どんなことでも主により頼むという単純なことで、物事はうまく行くと思います。
今振り返ってみても、ホームスクーリングは私の人生の最高の選択でした。暗いトンネルの中でこそ、子どもたちに慕われ、信頼され、私の周りにいてくれて、最高の時だったと思います。両親の愛に心から感謝/基義(きよし)
2016年3月に一橋大学法学部を卒業し、2017年に司法試験に合格し、現在弁護士として働いています。
ホームスクーリングで育ち本当に良かったですし、両親にとても感謝しています。もちろん、物事は必ずしも良い面ばかりではないので、つらかったこともあります。
ホームスクーリングで特につらかったことは、「他の人と違う」ということです。ホームスクーリングを始めた頃は、まだチア・にっぽんの設立前で、ホームスクーラーは今よりもっと少数派でした。他の子どもたちが学校教育を受けている中、自分は学校に行っていない。そうした“他人と違う”という意識は、思春期になると特に強くなり、劣等感やコンプレックスも覚えました。
例えば、午前中に外出すると、好奇の目でじろじろと見られます。おせっかいにも「あら、坊や、学校は?」と聞かれるたびに、イエスさまがペテロに言ったように「それがあなたに何の関係がありますか」と言いたくもなりました(笑)。同世代の友達から、「あいつは学校に行ってないから頭が悪い」と悪口を言われたこともあります。
今考えれば、こうしたことはメンタルを鍛え、逆に良かったと思えるのですが、当時の思春期の私はそのことをなかなか親にも話せず、コンプレックスやつらさを抱えていました。もっと親と話し合っていれば良かったと思いますし、劣等感は優越感や高慢さに簡単に豹変していくものだと思うので、しっかり解決しておくことが大事かなと思います。
次にホームスクーリングで良かったこと、感謝だったこと。最も感謝だったことは、聖書の御言葉に慣れ親しむ教育を受けてきたことです。これは本当にかけがえのないことだったと思います。ただ今回強調したい点は別の点です。それは、両親が心から私のことを愛してくれたことです。このことを私は心から感謝しています。当時はホームスクーリングをしている家庭は少なかったにもかかわらず、両親は、ホームスクーリングを選び、自分のことを犠牲にしてホームスクーリングに専心してくれました。そして、私たちに対する愛を言葉で、また行動で示してくれました。
例えば小さい頃、母は一日も欠かすことなく私たち一人ひとりを部屋に呼び、自作の絵本で聖書の御言葉を教え、祈ってくれました。何か問題にぶつかれば、父も母も必ず祈ってくれました。真剣にひれ伏して祈っている姿を何度も見たことがあります。大学入試や重要な試験の時には、御言葉を書いた手紙を渡してくれました。私たちを愛し、大事に思っていることを言葉で伝えてくれました。このような愛を受けてきたおかげで、今は両親に対する尊敬と愛と感謝の念でいっぱいです。
大切なのは信仰に基づいた選択だと思います。私は、学校に通わせることが悪いことだとは全く思いません。しかし、「みんな学校に行っている。だから学校へ行かせよう。」というのは、信仰に基づいた選択ではないように思うのです。この点で、両親が信仰に基づいてホームスクーリングを選択してくれたことは、子どもの頃から明確に伝わってきました。
最後に、御言葉をお分かちして証しを終えたいと思います。「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です」(第一コリント13:13)